本当は怖い計算ドリル ~その8~ 「お月様」から発明された「円」

プラトンのイデア論って、ご存知ですか。

私は哲学を専門的に学んだことがないので、
きちんと理解していないのですが、
高校時代、苦手だった社会の時間に出てきて、
妙に印象的に残っているのが
プラトンのイデア論なのです。

イデアの世界にあるものこそ「完全」なもので、
この世(現実世界)のものはすべて、
イデアの世界の影の産物だから
「不完全」なものである。

細部は忘れましたが、確かこのようなものだと記憶しています。

たとえば、この世の中に「丸いもの」はたくさんあります。
だけど、厳密に言えば、完全な「円」は存在しません。
腕利きの工芸師の方が作る円形の金属板は、
見た目には完全な「円」に見えますが、
顕微鏡で見れば、でこぼこがあり、
周囲は純粋な円の曲線を描いてはいないのです。

プラトンは、イメージの完全な「円」をイデアの世界にあるものとし、
現実世界にある「丸いもの」と明確に区別したのです。
プラトンの真意を私は知りませんが、確かに言えることは
人間はたくさんの「丸いもの」を見て、
完全な「円」をイメージすることができるということです。

それは、
おまんじゅう
おせんべい
サッカーボール
お月見団子
夜空に輝く満月
そして、スーパー・マルオ君の丸顔であったりするかもしれません。

様々なたくさんの「丸いもの」(具象世界)に接するうちに
次第に輪郭がぼやけて、
その中から共通するイメージが抽出され、
完全な「円」(抽象世界)のイメージが誕生するに
至ったのだと想像します。

実際には、別々の異なった「丸いもの」を見ているのに、
みんなの頭の中にイメージされた「円」が同じだなんて、
本当に不思議ですね。

おそらく、算数(数学)の基礎になる「数字」も同じです。

たとえば、きわめて抽象的な「3」という数字。
幼児期の子どもの頭の中に
明確に「3」がイメージされるためには、
日常生活の中であらゆる「3つのもの」に触れる必要があります。

3円
3個のリンゴ
3時のおやつ
3振、ストライクバッターアウト!
3枚のお札
3匹の子豚
3年寝太郎
団子3兄弟
3つ目小僧
3つのお願い
3匹の侍(だんだん古くなってきた(^^;))
・・・

いろんな「3つのもの」に触れることにより、

まるで
大地の中で
動物や植物の死骸が悠久の時間をかけて
石油や石炭になるがごとく
徐々に
ゆっくりと
子どもの頭の中で
「3」のイメージが
熟成されていくものと想像します。

数の概念がまだきちんと育っていない子どもにとっては
「3」というたったひとつの数字さえ、
イメージすることがままならないのです。

「3」のイメージがしっかり確立されないうちに

3+3=

のような計算問題を大量に
高速練習すると、
もはや数をイメージすることなく、

「に+に=と」(前回の記事参照)のように

答をひたすら丸暗記してしまう危険性があるのです。

また、これは
丸暗記ですから、悲しいかな
やがて・・・時間がたつと忘れます。
(忘れることを知っているから、答を忘れさせまいとして
学校などでは大量の計算を宿題として出すわけです)

一方、数の概念がしっかり確立できて、
数を瞬時にありありと具体的にイメージできる子どもは

3+3=6から

○○○+○○○=○○○○○○

をイメージしているでしょうから、

そのイメージは

○○○の2つ分=○○○○○○

○+○○○○○=○○○○○○
○○+○○○○=○○○○○○
○○○○+○○=○○○○○○
○○○○○+○=○○○○○○

と発展する可能性を秘めています。

ですから、

3+3=6を

具体的なイメージを伴いつつ理解した子は

3×2=6

1+5=6
2+4=6
4+2=6
5+1=6

の計算は習わなくてもすでにわかっているのです。

まさに「1を聞いて10を知る」の世界です。

3+3の計算ひとつだけで
これです。

実際には、もっともっといろんな計算をするわけです。

数のイメージによる計算方法で行えば、
数の組み合わせが幾何級数的に増大します。

およそ「数のセンス」はこのように形成されていきます。

しかし、イメージによらないものは、
発展する可能性のかけらもありません。

「に+に=と」でおしまいです。(T_T)

「イメージ」によるかよらないかの
計算の習得の仕方の違いで
こうも違うのです。

「数のセンス」を身につける点において
こんなにも大きく差があるのです。

断言します!

数学(算数)のセンスは
頭の善し悪しで決まるものではありません。
ましてや、早期教育や右脳教育によるものでは
決してありません。

要は、幼児期における「数」との触れ合い方です。

日常生活の中で
どのように
「数」に触れていくか。

ただそれだけ。

特別なことは一切必要なし。

「可愛い子には旅をさせろ」

いろいろなことを
ひたすら自分でさせることです。
(もちろん、何かあった時のために、
子どものすぐそばに親の愛情あふれたまなざしが
必要であることはいうまでもありません。)

日常生活の中で「数」と慣れ親しんで、遊ぶだけです。
親子でゆっくり楽しみながら。

具体的な状況の中で「数」と戯(たわむ)れることによってのみ
子どもの頭の中で、自然にゆっくりと
「数」の概念の確立が行われていきます。

たくさんの「具体的なものの数」から、「抽象的な数」への移行。

その時、親子の無数の対話の中で
自然に「数」を会得していくことはまちがいありません。

「数」を教(おし)えるということではないのです。

「数」をひたすら数(かぞ)えて、

数えて、数えて、数えて、ひたすら数えて…

ある臨界点を越えた瞬間、

数の秘密をもたらす扉の鍵が、

子どもに与えられることでしょう。

「よく遊び、よく学べ」と言う言葉があります。

この言葉は

「よく遊び(具象世界)、よく学べ(抽象世界)」という風に
とらえなおすと

「子どもの本来あるべき学習過程」を表すという
解釈が可能になります。

つまり、よく言われるように、
勉強ばかりでなく少しは遊ばなければいけないと
いう意味でなく、

「遊び」から「学び」へいたる重要な成長過程を表しているのです。

「遊び(具象世界)」なくして
「学び(抽象世界)」はありえない。

「遊び」は、「学び」の礎(いしずえ)となるのです。

だから、厳密に言えば、
「よく遊び、よく学べ」であって、
「よく学び、よく遊べ」ではないのです。

「遊び」が先でないと、成立しない世界。
「遊び」があるから、「学び」が成立するのです。

このことは

「わかる」があるから、「できる」が成立すると
置き換えることができます。

ですから、

ただ単に「できる」からといって、
「わかる」前に(数の概念が確立する前に)
大量の計算ドリルを先行してやらせてはいけない理由が
ここにあります。

子ども時代は、
「グショウ庭」という庭で、
思い切り遊ばなくてはいけない時期です。

「グショウ庭」で思い切り遊んだ子だけが
「チュウショウ学校」でお勉強した時に
本当に実のある学習になるのでしょうね。

そして、お勉強に飽きたら、
再び「グショウ庭」で遊ぶ。しばらくして再び「チュウショウ学校」。

「グショウ庭」と「チュウショウ学校」を入ったり来たりの往復。
(だけど、スタートは必ず「グショウ庭」から。
ここを間違えてはいけない!)

「○△君、遊ぼうや」
時折、私の頭の中で、
小学校時代の友達の懐かしい声がこだまします。
もしかして
抽象世界に長く居すぎて具体的イメージが枯渇した私を
哀れんだ昔の友達が
「そんな狭い世界にいないで、僕といっしょに遊ぼうよ。
もっともっと広い世界を見なくちゃだめだよ!」と外に連れ出そうと
誘ってくれているのかもしれません。

なお、今回のサブタイトルの「お月様」から発明された「円」は
昔、好んでよく読んでいた劇作家別役実氏の脚本
「別役 実 第二戯曲集 不思議の国のアリス」より拝借しました。

それでは最後に
別役実氏に代わって質問です。


人々は、お月様から円を発明しました。
それから人々は、石から四角を発明しました。
その次に人々は、森から三角を発明しました。

それでは、人々は「人間の顔」から「何」を発明したでしょう。

答は

へ へ
の の
 も
 へ
 じ

この記事は旧ブログに書いた記事(2005年)を編集したものです。

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