本当は怖い計算ドリル ~その10~ 子どもの頭は、真っ白なキャンバス

今でこそ、個人塾を開いて、自分のペースで進めることができますので、いろいろなことを考える余裕も生まれていますが、かつて、進学塾で社員として働いていたときは、本当にそれこそ大変な毎日でした。
特に、受験シーズンになると、数ヶ月は休みなしの状態で、まさしく身を削ってやっていた時期でした。
ある時、1週間分の睡眠時間を全部合わせたときに、10時間ぐらいしかなくて、われながらこれでよく生きているなあと、あきれたこともあります。
席が隣だった先輩講師に、「過労死になったら、証言お願いしますね」ってよく冗談交じりで頼んでいたのを思い出します。

そういう過酷な状況の中で、唯一の楽しみが飲み会でしたね。

塾という世界は基本的に野郎講師の集まり。当然馬鹿話も多いのですが、塾という特殊な環境のせいか、話題は子どものこと、教科の指導法などがどうしても多くなるわけです。
酒飲みながら、算数や国語などの話をするのは一般の方には
信じがたいかもしれませんが・・・。

その中でも、とりわけ印象的に残っている話題のひとつに、

授業中同じ話をしても、熱心に話を聞いているにもかかわらず
理解できる子と理解できない子が出てくるのはなぜか。
その差はいったいどこから生まれてくるのだろう。

いくら議論しても、頭の善し悪しで片づけられることが多いのが、この話題の特徴です。頭の善し悪しで片づけてしまえば、我々のやっていることはなんなのか?
いつも結論が得られません。

だけど、最近少しずつですが、その謎が解けてきたように思えます。

番外編の「わが塾の遍歴」でも触れましたが、
計算ドリルをやめて、
絵を描きながら文章題を解く学習を軸に取り組み始めると
日々、子どもたちが変化するのを感じていくのです。

これまで何度説明しても、なかなかピンとこなかった基本事項が、
自分で絵を描くことによって、勝手に自分で理解できているようなのです。

「まずは図を描いて、…」
「あ、そうか」
「へえ、なるほど」
「ということは、こうなるわけね」
「つまり、…」
好ましい独り言が増えてきましたね。

なぜなのでしょう?
いろいろと説明しなくても勝手にわかっていくのは、なぜなのか?

その答はずばり、「絵」にあります。

問題文を読んで、その内容を絵(イメージ)として自らの理解に従って、紙の上に表現していく。すると、そのイメージを通じて、見えるようです。

絵にしなければ、何を言っているのか分からなかった問題、
いくら考えてもわからなかった問題のしくみが。

あ、そういうことね。

いとも簡単に見えます。

だから、ここで問題となるのは、問題文を「絵」(イメージ)として
表すことができるかどうかなのです。

絵を描きながら文章題を解く体験をしたことがない子は問題文を読むとすぐに式を立てようとします。また、その式の立て方がまさに条件反射的としかいいようがないのです。

3人の子どもがいます。みんなにそれぞれ2こずつのリンゴをあげることにしました。全部で何個のリンゴが必要ですか。

この問題を、かけ算を習う前の小学校2年生のお子さんに出すと、多くの子が悩んで、「これ、たし算?」っていいながら、
おそるおそる
3+2=5としてしまう子は少なくありません。
当然、2+2+2=6(個)と答えることのできる子も少数ながらいます。この場合、頭でちゃんとイメージできているから、正しい式と答が出てくるわけです。

では、なぜ多くの子が、3+2としてしまうか。

原因は明らかです。
いつも解いている文章題が、あまりにも単純だからです。
何算かがわかれば、目の前の2つの文字で、式を機械的に作るだけ。

学校のテストでは、このような問題しか出てこないわけですから、つい教える側も、「全部で何個?と聞かれたら、たし算の式を立てるのよ」と、解法パターンの暗記として教えてしまいがちです。

そこで、計算問題と並行して、ドリル的にたし算の文章題に取り組むことになります。つまり、問題文の内容を考えることなく、
ひたすらたし算の式に変換して答を出す練習。

解法パターン丸暗記型の勉強の始まりです。
(ここを出発点として、パターン暗記学習ひいては公式主義が高校までずっと続くことになります。そして、その解法パターンを暗記するために、学校や塾から膨大な量の宿題をさせられ、問題を解く手順を覚えることができる暗記の強い子だけが良い成績を取ることができるというしくみができあがっていきます。時折見かける「あの子、塾にも通っていなくて、日頃も勉強しているように見えないのだけど、いつも成績は優秀。なぜなんだろう?」と思わせるスーパー少年少女たち。彼らはこの解法パターン暗記学習の罠にはまらないで、意味を考えながら解いていくという正しい学習スタイルをとっただけなのです。すると、たくさんの問題を解かなくても、少しの学習で勝手に頭の中に入っていきますから。不思議でも何でもないのです)

小学2年生の子どもの頭の中には、たし算かひき算かを判断し、あとは目の前の2つの文字で式を作るというパターンしかありませんから、この問題の式は「たし算だ!」と判断すれば、目の前にある「3人」と「2個」を足してしまって、答を5個としてしまうのです。

だけど、学校で「かけ算」を習った後は、様相は一変します。
この種の問題は、子どもたちのお得意様問題に変身するのです。

「全部で何個?とたずねられても、『それぞれに何個ずつ』という表現があれば『かけ算』」という新しい暗記項目を教わります。

私が実際に授業参観で目にしたときは、

 「1つ分の数」×「いくつ分」=「ぜんぶの数」

と大きく板書して、

この公式を班ごとに何度も何度も復唱させていました。(だけど、これは私の地域の小学校の先生が悪いとかという問題ではまったくありません。今の算数教育のあり方が一般的にこうなっているということをお知らせしているだけです。学校のみならず、塾までもがほとんどこのようになっているわけですから。特定の学習機関を非難しているわけではありませんので、何卒ご理解のほどよろしくお願いします。)

また、ある学習指導案の一例として、次に掲げておきます。(もしこれが特殊な例だとすれば、明らかに私の誤解ですので、この事に関して異論のある小学校の先生はコメントくださるようよろしくお願いいたします)

「1つ分の数」「いくつ分」「ぜんぶの数」という言葉を大切にし,常に,絵やおはじき,式と照らし合せて黒板に板書するようにし,どれが「1つ分の数」で「いくつ分」なのか子どもたちが視覚的に分かりやすいようにしていきたい。そうすることで,一つ一つの数が明確になり,より理解が深まっていくと考えられる。

(注:なおこの学習指導案は非常にすぐれた指導案で、これを作成された先生の努力に対して敬服するしかありません。ここで取り上げたのは、一般にどのような算数学習が行われているかを紹介するための資料として使わせて頂いています)

この指導案からも、かけ算の概念をきちんとていねいに教えなくてはいけないという熱意が十分伝わってきます。だけど、残念ながら最終的には公式として暗記させようとしてしまう現在の算数教育のあり方が見て取れます。指導者がしくみとしてこの公式を頭に入れておくことはまったくかまわないのですが、子どもにこの公式をそっくりそのまま伝えるとどうなるでしょう。

かえって、混乱することでしょう。

イメージだけで捕らえていけば簡単にすむところを、大人でも混乱しそうなわざわざ抽象的な用語を使うというのは、子どもの世界を知らなさすぎます。「1つ分の数」と「いくつ分」という言葉が子どもにとってどれだけむずかしいことか・・・。
(子どもの世界を知らない人は、「ようこそ子どもの世界へ」を参照してください)

イメージするだけでできる問題をあえてわざわざ式を立てて答を出させるというパターン別に認識する(これは『かけ算』の問題、これは『わり算』の問題という認識の仕方)ような方向にもっていくという、現在の指導のあり方に本当に大きな問題がひそんでいるように感じます。

言葉で理解するわけではないのです。具体的な状況をイメージさえ出来れば、かけ算の式を知らなくても幼稚園児の年長さんでもできる問題です。絵を描いて数えるだけでいいわけですから。

ここで、先ほどの問題を再度ご覧ください。

3人の子どもがいます。みんなにそれぞれ2こずつのリンゴをあげることにしました。全部で何個のリンゴが必要ですか。

パターン学習において、この問題を「かけ算」と認識する鍵は、言葉の中にあります。この「~ずつ」ということが強調され、ドリルとして文章題をたくさん解いた結果、反射的に子どもたちの頭の中に「~ずつ」は『かけ算』ということがすり込まれていくのです。(かけ算の導入の時間に、学校の先生がいろいろな道具を使って、かけ算のイメージ化をはかって、定着させようとするいろいろ努力されていることは私も知っています。だけど、途中からこのような公式を持ち出すものだから、おかしくなってしまうのです)

そうしたパターンを覚えるために、ドリル的に文章題を取り組むことになります。つまり、問題文の内容を考えることなく、ひたすらかけ算の式に変換して答を出す練習をします。内容を考えずにひたすら計算式を作って計算するわけですから、イメージすることなく機械的に処理することができます。

このような処理だけですらすらできる子を見て優秀な子と思われるかもしれません。だけど、いずれ壁にぶつかります。応用がきかない頭になりつつあるのです。

小学校のお子さんをお持ちのお母様方はどうぞお子さんの計算ドリルの中の文章題・学校で行われるテストをご覧になってみてください。
タイトルが『かけ算』となっていれば、『かけ算』の問題しか出てきません。(実はかけ算の文章題では、2×3を3×2としてしまうという大きな関門があるのですが、意外とこの問題は根が深いのでここでは触れないことにします。ただ、イメージで解くことだけに徹して、式を立てないで答を出すことに徹すれば、この問題は自然に解消するのに残念だという思いはあります。)

このように、小学校の低学年から始まったパターン暗記学習は、高校まで行われていきます。

考えないで問題を解くことをくり返し反復して行うことを、小学校の低学年から高校3年までの10年以上もの間、そうした暗記主体の「考えなくても答が出る」勉強に費やされることになります。

こういう練習ばかり積み重ねていって、たし算・ひき算・かけ算・わり算すべてそろった頃、小学3・4年生あたりからの学期末テストなどに、たまに出題される「何算かわからない文章題」に出会ったとき、もともと理解しないでパターンを暗記していただけの子は、この文章題は何算?と悩んだあげく、適当に勘で式をでっちあげるしかなくなっていくわけです。この時点ではじめて、家庭でもうちの子は文章題ができないと気づき、塾に行かなくてはなどと、あわてることになるのですが、実ははじめから何も理解していなかったということになります。きついことをいうようですが・・・。

それから、現在の勉強の仕方は、ほとんどが目の前のテストで良い点を取るという「その場しのぎ」の勉強になっています。目の前のテストで良い点を取るためには、図を描いてじっくりと考える学習は向きません。なぜなら、テストは短時間で大量の問題をこなさなくてはいけないようにできているからです。

テスト対策と称して、反射的に大量の問題を解いていきます。

すると、ある病気が頭の中で進行していきます。

思考力欠落病(考えることができない病)」です。
(このシリーズの「わからないのに解ける?」を参照)

この病気が進行してしまって、もはや手遅れ状態になっている中学生を目の前に、いったいどうしたらいいのだろうとお嘆きの学校や塾の先生がそれこそたくさんいらっしゃることでしょう。

また、子どもたちが勉強できないのは、その子の怠惰のせいにする風潮がありますね。

だけど、思うのです。

それより前に、本当に楽しく勉強する方法をそうした子どもに十分伝えてこれたのか。
本来の楽しく学べる方法を伝え切れていたのなら、救われている子どもはかなりの数にのぼるのではないかと。

ここで、脳はどのように育っていくのかを考えてみたいと思います。よく言われるように、遺伝で賢さが決まっていくのか、いかないのか。

生まれてきたばかりの赤ん坊は、当然の事ながら、言葉を話すことはできません。だけど、生まれたその瞬間から、まわりの情報をキャッチして一生懸命に自らの脳を育て始めていきます。

原始人であるクロマニヨン人の子どもをもし現代に連れてきたら、ちゃんとした普通の現代人として育つだろうということを、「九九神話の崩壊」で登場して頂いた池谷裕二先生もその著「進化しすぎた脳」の中でおっしゃっています。脳はまわりの環境が育てるものだということはいろいろな実験で明らかにされているということです。

もし、このことが本当ならば、さほど、もしかして、まったく遺伝は関係ないことになります。

もし、脳に遺伝が関係ないのならば、

子どもの頭は、真っ白なキャンバスのようなものです。

しかも、伸縮自在の時間・空間を超越した四次元キャンバス。

物理的には、光より速い物質はないということになっています。
だけど、光より速いもの。本当にないのでしょうか。

あります。

思考です。

太古から海のナビゲーターとして活躍してきた北の夜空に輝く
北極星。
北極星から発せられた光はおよそ秒速30万kmの速さで地球に向かったにもかかわらず、到着するまでに430年もの時間をかけなくてはいけないということです。

だけど、人間の思考であれば、一瞬です。
北極星のことを「思って」「考えた」だけで一瞬にして北極星にたどり着けるのです。

なんと、人間の頭の中のキャンバスの大きさは北極星よりもはるかに遠い宇宙の果てまでということになります。宇宙の果てをイメージするだけで、どんどん広がっていくわけです。

宇宙サイズの真っ白なキャンバス。

子どもは、このキャンバスにグショウ庭で拾ったいろいろな宝物(イメージ)をペタペタと貼り付けていきます。それらの宝物は、形も色もさまざまです。そのイメージは視覚的なイメージだけではありません。音のイメージ、においのイメージ、触覚のイメージなど5感を総動員したいろいろなイメージの原形が、統合・分離をくり返しながら、さらなる高度で新しいイメージをどんどん産み出していく。
その光景はさながらアメーバからホ乳類にいたる生命の歴史の縮図を見るようでもあります。

子どもたちの頭の中のキャンバスは無限大の大きさ。

だから、いくらでもどんどん貼り付けることができます。
イメージでありさえすれば。

キャンバスにイメージはお似合い。
だけど、キャンバスに文字は似合いません。

文字それ自体は、固定化された情報ですから、イメージのように進化・発展はしていきません。(もちろん文字から得られたイメージは同じく進化・発展していきます)

子どもたちはおのおのがせっかく無限大のキャンバスを持ちながらも、それを生かすことができないのは、固定化された情報ばかり詰め込まれるからです。

問題の解き方の手順や公式の暗記。
たくさんの量の高速反復計算ドリル。

これらは、ほとんどイメージを必要としなくても、できるものばかりです。

そうした文字情報を、真っ白なキャンバスに描く?

もったいない。もったいない。

そうすれば、しぼんでしまって硬直化してしまい、
奥行きもなくなり、たちまち平面化してしまう。
単なる紙きれ1枚と化してしまうことでしょう。

そして、最終的にそこには「虎の巻」よろしく問題の解き方が、
文字で書かれているだけ。
しかも時間が経てば、だんだんと薄くなってしまい、読めなくなってしまう。そのため、読めにくくなった薄い文字を上からなぞりがきしていく。

これがパターン暗記を推奨する人たちが、勉強には何度も何度も反復が必要だとする理由です。だけど、いくら上からなぞり書きしていっても、いずれは薄くなります。理解していないものは、結局忘れ去られる運命なのです。

それに比べ、イメージは薄くなることはありません。
いつも仲間を求めて、広いキャンバス内を移動していき、
統合・分離をくり返して新しいイメージをどんどん産み出す。

英語でも、「わかった」というとき、I see. と言いますね。

「わかる」ということは「見える」と同義なのです。

どうやら、この「わかる」感覚は国を超えて共通の感覚ということがいえそうです。

見えた瞬間、おのずから理解されるわけです。
言葉そのものを理解するわけではないのです。

イメージによってしか物事を理解することはできないのです。

つまり、ある内容を理解できるかどうかは
頭の中で言葉をイメージとして変換できているかどうか。
ひたすら、そこにかかっています。

ですから、同じ話を同じように熱心に聞いても、
理解できるかどうかの差が人によって生じてくるわけです。

童謡「ふるさと」という歌があります。

う~さ~ぎ お~いし か~の~や~ま~♪

この始めの一節を

私は非常に長い間、

蚊がぶんぶんうるさく飛び回っている山のてっぺんで
おじいさんとおばあさんがウサギ鍋を食べている光景を想像していました。

子どもが授業を聞いて、

私のようなスカタン解釈をしないためにも

グショウ庭でたくさん遊び、

たくさんの宝物を拾って、

頭の中の真っ白なキャンバスを

いろいろなイメージで満たす必要がありますね。

この記事は旧ブログに書いた記事(2005年)を編集したものです。

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