本当は怖い計算ドリル ~エピローグ~ 学習は、楽習!

「ただいま!」

ランドセルを自分の部屋に置くと、すぐさま

「いってきまあ~す!」

学校から帰ると、あっという間にいなくなる小学校3年生の長女。

もちろん、宿題は遊んだあとです。

だって、遊びに行く前に宿題をすると、大切な「遊び」の時間がなくなっちゃうもんね。

担任の先生に許可を得て、自分で宿題をどのようにアレンジしてもいいことになりました。(^_^)v

いろいろ考えてみて、今はだんだん方向性が見えてきました。

算数は、1日に計算問題を2題だけ!
図を描かないととけないような習っていない計算問題を出します。
図を描いてゆっくり丁寧に解きます。
だって、ふつうの筆算は毎日、学校で飽きるほどやっているらしいですから。

漢字ドリルは、1日に1字だけ!
(じゃ、テストは?って、思われるかもしれませんね。まったく無視です。悪い点を取ってもいいよと娘には言っています。
もちろん、理由も説明しましたよ。テストに合わせると、1日に1字をじっくり味わうことはできませんから。
また、小学校で習う漢字は全部で1006字。ということは、このペースでいけば3年足らずですべて習得できるということです。)
ノート1ページ分に、大きく、ゆっくりと、丁寧に、心をこめて、習字のように、書くだけ。
となりのページには、その漢字から受けるイメージを絵にすることと、その漢字をできるだけたくさん使った文を作ること(これが結構楽しいらしい!)。

一日の分量は、たったこれだけですから、です。

しかも、結構しめますよ。

しかもしかも、時間はずいぶんあまります。
(他にも、絵を描きながら算数の文章題を解きますが、週に1題だけですから)

まさに、学習は、!

あまった時間は、

友だちと外で遊んだり、
本を読んだり、
歌を歌ったり、
ピアノを弾いたり、
好きな絵を描いたり、
テレビを見たり、
お話ししたり、
空想にふけったり、
料理のお手伝いをしたり、
TVゲームやトランプをしたり、
などなど

すべてグショウ庭でのお遊びです。

だけど、それは勉強のために遊んでいるわけではありません。
(そこのところ、誤解なきように)
遊びたいから、遊ぶ。
ただこれだけです。

当初、学校にかけあって、自分の子どもだけ宿題を免除してもらうのはかなりとまどいました。

娘だけが宿題なし。当然、他の子から、「どうして、○○さんだけ、宿題ないと?」の声が出るに決まっています。
これがきっかけでいじめに合わないともかぎりません。

そのことを担任の先生に相談すると、先生もいろいろとご心配なさっていただいて、他のお子さんもお家の人の申し出があれば、宿題はうちの子と同じように免除されるということになりました。
(これで、他のお子さんも納得。だけど、授業の中で先生がそうおっしゃった時、みんな一斉に喜んだらしいのですが、次の瞬間、ふと我に返り、「うちのお母さんが宿題せんでいいっていうわけないもんなあ」と早くもあきらめていたようだったそうです。今のところ、その申し出はないようです。つまり、うちの子だけです。宿題がないのは)

先生、感謝です!

さて、私がなぜここまで、計算ドリルを目の敵にしているのか。
不思議に思われながら、このシリーズをお読みになっている方もたくさんいらっしゃるかもしれません。
計算ドリルがよくないのは、わかった。
だけど、考える学習と組み合わせてやればいいじゃないかと。

結論を言います。

やっぱり、計算ドリルは有害である。

ただし、ウイルスにかかっても発病しない子がいるのと同じく、
計算ドリルをしても、ほとんど害にならない子もいることも確かです。(また事実がこの種の議論を難しくしているのですが、・・・)

グショウ庭でたくましく育ち、数の感覚ができあがっている子は
ケイサンドリル・ウィルスごときでつぶされるようなやわな頭の持ち主ではありません。
だけど、グショウっ子たちにも、計算ドリルでなく、他のもっと効果的な教材を与えると、どうなるのだろうと想像してごらんになってください。
それはもう、とてつもなく、すごくなるんだろうなあと考えざるをえません。
「九九神話の崩壊」でお馴染みの池谷裕二先生レベルに達すると本気で思っています。

だけど、子どもたちの大多数は、数の概念がしっかりと確立しないまま小学校に上がります。(「ようこそ、子どもの世界へ!」参照)

本来ならば、具象物を使って、せかされることなく、じっくりと、
自分のペースで、数をイメージとして理解していかなくてはいけない時期です。

この時期に、計算プリントを大量に行うと、数や式がイメージとして頭に残りませんから、「考えることができない」頭になります。
(日常生活に支障が出ない範囲で)

「考える」ことは脳の働きのひとつですので、
計算ドリルによって「考える」ことができなくなるならば
計算ドリルは脳に有害だということがいえるわけです。

ですから、計算ドリルはいわば、

脳にとっては、「毒」ということができます。

だから、巷で言われるように、

計算ドリルによって「計算力」をつけてから、その後「考える力」をつけようという考え方は

私には、

「毒」を飲んでから、「薬」を飲もう!

にしか聞こえないのです。

「毒」を飲んでも、だいじょうぶな子は確かに存在します。

だけど、「毒」を飲んで「思考性麻痺」になってしまったらどうするのですか?

だれが責任取ってくれるのでしょう。

医療現場の医療ミスで、患者さんが大変な状態になった時、
医者たちが沈痛な面持ちで謝罪して頭を下げているシーンは
テレビなどでよく見かけるところです。医療現場では、ちょっとしたミスが命取りになります(それこそ文字通り!)。

だけど、教育現場でのミスはだれにも知られることありません。
ミスが起きたかどうかさえわからないから、その誤った処置によって起こる症状を放置されることがあるのが、教育現場の特徴です。医療現場のように、ミスに対する結果がすぐ出てきません。

まっこと、恐ろしいことですねえ。(~_~;)

現在、行っていることが本当に正しいかどうかは、子どもたちが成長して社会に出てはじめてわかることなのです。

だからといって、いいかげんにしていいことにはなりません。
本当はいろいろな事が、慎重に考えてされなくてはいけないことなのに、十分な議論がないまま、いろいろな事が安易に行われている気がしてなりません。

ミスをしても、それがミスかどうか検証もなく、ただただ同じ事がくり返されることになります。
これまで伝統的にこのようにやってきたという理由だけで。
(算数の話の途中ですが、ここでは英語を例にとります。学校の英語の授業がここ30年間変わらないスタイルで行われていることに驚きが隠せないのは私だけでしょうか。これだけフォニックスという、英単語を効果的に覚える方法が世の中にたくさんに出回っているにもかかわらず、いまだに「何度も書け式根性英単語つづり習得法」で日々中学生は悪戦苦闘していますし、英文を後ろから訳すことの弊害が専門家の間からこれだけ叫ばれているのに、教室では平気で英文を自然な日本文で訳す訳読式授業が行われています。日本の英語教育がこれだけ批判の的になっているにもかかわらず、どうして何も変わらないのだろうと不思議でなりません。本当に、なぜだ(?_?)なぜだ(?_?)なぜだ(?_?))

さて、算数の世界に話をもどします。

『計算ドリル』という「毒」を与えておいて、
「思考性麻痺」になってもだれも責任を取らないのが現状です。
「思考性麻痺」が症状として出ない今のシステムが幸いして、
だれも騒ぎ立てることもありません。
むしろ、病状が悪化した患者である子どもに対して、文句を言うこともあるようです。

「問題文をよく読んで考えなさい。どうして考えようとしないんだ!」

一体、だれがそのような「考えることができない」頭にしたのかと言いたくなりますが、子どもたちにしてみても、その病の自覚症状がないわけですから、「自分の頭が悪い」と思うしかないのです。

「考えることのできない」病気に子どもがかかったら、その責任は一体だれが取ってくれるのでしょう。

だれもとってはくれません。

だからこそ、自分の子どもは親である自分が守るしかないのです。

でも、うちの子はだいじょうぶと思われている方もたくさんいらっしゃると思います。残念ながら、私の目からすれば、その病気にかかっている子どもは、一見症状に表れていないだけで、たくさんいます。しかも、その子どもたちの中には、学校では満点かそれに近い点ばかり取っている子もいます。(信じがたいことでしょうが、学校のテストの多くは考えなくてもできる問題ばかりです。特に小学校は)

それでは、「思考性麻痺」という病気にかからないように

同時に、本当の計算力をつけるためには

どのような学習をすればよいのでしょう。

そのことを説明する前に、今の子どもたちが
どのように計算問題を解いているかをまずお話ししなければいけません。

次の計算問題をごらんください。

① 600×3=

② 600×300=

③ 600÷3=

④ 600÷300=

この問題は、習いたての頃、筆算でしますが、
計算が得意な子はそのうち暗算でできるようになります。

一見何の変哲もない簡単な問題ですが、
計算の手順を比べると、意外に混乱しそうだなということに気がつきます。

① 600×3の計算は、まず600のうちの0をふたつ隠して、
6×3=18。その18に隠した2つの0をつけると、1800になる。

② 600×300の計算は、まずどちらの数も00を隠して、
6×3=18。最後に、18に隠した4つの0をつけると、180000になる。

③ 600÷3の計算は、まず600のうちの0をふたつ隠して、
6÷3=2。あと隠した2つの0をつけて、200になる。

④ 600÷300の計算は、どちらも0を同じ数だけ
消していいから、6÷3で答は2になる。

観察して分かることは、①と③の手順が似ていると言うこと。
②と④では、0の数字の扱い方が反対です。
もっとよく観察すれば、①と②と③の手順が同じで、④だけちがうとも見ることはできます。

以上が、この4つの計算手順です(意味がわからずとも、
手順と九九の知識があればできますね)。

さて、このあたり(4つのパターンの式が出そろったあたり)から、子どもたちの頭は混乱し始めます。学校では、これらを一度に習うことなく小出しにするから、宿題やテストで迷わなかっただけです。

0のついた数のかけ算・わり算を目の前にすると
この4つのパターンが子どもたちの頭の中で
ぐるぐるまわることになります。

「えーと、0をどちらも消していいのは、かけ算だったっけ、わり算だったっけ」

その手順を覚えさせるために、学校でも塾でもひたすら、大量の計算問題を解かせる。しばらくの間は、解けるようになります。わかっていなくてもテストでいい点をとれるわけです。(この手順を覚えることが出来ない子は暗算ではなく、すべてを筆算で計算しようとします。実際、中学生でさえ、40×10を筆算でする子は結構います)。

だけど、しょせん手順を丸暗記しただけで、きちんと意味を理解したわけではないので、時間がたてば忘れていきます。

分数の計算問題が解けない有名大学の大学生がひところ話題になりました。(参照「分数ができない大学生―21世紀の日本が危ない」

有名大学の学生であるにもかかわらず、彼らがなぜ分数の計算ができなかったのか。(その謎が解けないものですから、ただ単に学力が低下したんだと結論づけられましたが・・・)

理由は簡単です。

「解く手順」を忘れたからです。

有名大学に入った大学生ということは、小学生の頃、優秀だった確率は高いわけです。よって、その優秀児でさえ、本当は分数の計算の意味を知らないで、ただ機械的に解いていたのではないかと疑うことができます。

意味を考えながら計算していたら、時間が経ってもできなくなることはありえません。

なぜ答がそうなるのか当たり前のような感覚になり、
なぜそのような操作をしてもいいかを理解することになります。

たとえば、16÷0.8=20ですが、

16にどういう操作をしたから、20という答が得られるのか。
(ヒント:0.8を分数に直して、計算してみてください。答が出たら、これまでの流れを線分図に表してみましょう。あとはひたすら観察です!しくみが見えてきます。お母様方、頑張ってみてください!!これがわかれば、お子さんに本当に納得のいく説明ができますよ!)

それを真に理解している子どもたちは私が知る限り、
ほとんど皆無です。
いえ、それどころか、学校や塾の指導者でさえ、
多くの方がここの理解は怪しいのではないかと
ひそかに疑っています。
(現に私自身、このしくみに気がついたのは2,3年前のことです。図を描いているうちにあっと思いました。実は知らなかったのは、私だけだったりして (^^;))

日頃から、イメージで計算の理解を積み上げてきた人にとっては、当たり前の操作なのですが、
計算ドリルで、理解なんかおかまいなしで、ひたすら「できる」だけでよしとしてきた人にとっては
しくみを説明することはおそらく不可能でしょう。
ただ解き方の手順を説明できるだけです。

裏側に隠れている操作が見えると、

割合の公式「もとにする量=比べる量÷割合」の本当の姿が
見えてきます。

なぜ、割合のことを「割合」」という言葉で表すかということも・・・。

だけど、学校のテストで良い点を取る点を取るレベルだけでとどまるのなら、本当の姿は見えてこなくてもかまわないわけです。
答さえ合ってれば、テストで良い点取れますから。公式に当てはめると答が自動的に出てくるから、問題がないということなんでしょうね。

それでは、イメージによる計算方法を、先ほどの③と④の問題を使って説明します。

③ 600÷3の問題。この問題を、「600円を3人で分ける具体的状況」を思い浮かべるだけで、0をどうすると覚えなくも、
自然に200と出てきますし、

④ 600÷300の問題。この問題は「600円を300円ずつ配ると何人にあげることができるか」とイメージした瞬間、答の2がすぐに出てきます。

本当の計算力をつけるためには、

この世界を小学1年生から、順々に積み重ねるだけです。

このイメージをオーバーラップさせる計算方法であれば、
あんなにたくさんの練習をさせる必要はありません。

たしかに計算力は必要です。

ただ「計算力」をつける方法として、
「計算ドリル」はあまりにも危険だし、応用が利かないから
他の方法にしようといっているだけなのです。

計算もじっくりと、イメージを組み合わせながら行い(はじめはゆっくりとノートに絵を描いて)、そのイメージが自由自在に使えるようになったときに

筆算の手順を覚えてしまえば、いいわけです。

そのようにすれば、式を見たときに、子どもは考えます。

これは工夫した方が早いのか、筆算した方が早いのか。

慣れれば一瞬です。

そうすれば、

567+999をいちいち筆算で解かなくても、瞬時に1566と答が出るでしょうし、

762+453は工夫してもそんなに意味なさそうだから、筆算で答を出せばいいだけの話なのです。(もちろん、この式だって工夫の余地はあります。問題によっては、個人の力量次第ということになります)

話は変わりますが、かつてスポーツの世界で、長い間、足腰を鍛える非常にハードなトレーニング法で、「ウサギ跳び」というものがありました。(アニメ『巨人の星』のオープニングシーンで有名なあれです。たしか星飛雄馬と伴宙太がウサギ跳びの対決でお互い何十周もして友情が深くなっていった感動的なシーンもありましたね)
その後、運動生理学が発達して、「ウサギ跳び」が明らかに膝に悪影響を及ぼすことがわかり、いつのまにかされなくなったものです。
実は当時、「ウサギ跳び」が悪いということは、一部ではささやかれていました。ウサギ跳びのしすぎで腰が悪くなり、剣道をやめてしまった知り合いもいました。いろいろなところで被害の報告が出ていたにもかかわらず、全体としてはなかなかやめる方向にはいきませんでした。
専門家がはじめて「ウサギ跳びは有害である」ということを公表して、やっと「ウサギ跳び」はされなくなりました。
今でこそ、危険なことが立証され、「ウサギ跳び」という言葉さえ、人々の頭から消え去りつつあります。

まさに、頭に害をおよぼす「計算ドリル」は、算数・数学の世界の「ウサギ跳び」といっても過言ではないでしょう。

「先生、今日も宿題これだけしかないの?」

「ああ、そうだよ。どうして、そんなこというんだい?」

「だって、お母さん、言っていたよ。お母さんたちが小学生の頃はね、『けえさんどりる』っていうのがあってね。毎日毎日、計算ばかりさせられて、いやでいやでたまらなかったものだけど、今みたいに、少ししかさせないっていうのもどうなんだろうねえ。ま、昔よりもぐーんと学力が上がったらしいからいいんだろうけどねって。ところで、先生。『けえさんどりる』って、何?」

「そうか。『計算ドリル』という言葉も、そろそろ死語になりかけてるな。『計算ドリル』というのはね、計算問題ばかり、ずらーと並んでいる薄い問題集のようなものなんだ。実は先生も、君たちの頃は、わけもわからず『計算ドリル』を何度も何度もさせられたものさ。なにしろ当時は、基礎基本の徹底で計算をたくさんすれば、学力が上がるって信じられていたからねえ」

「へえ、そんな時代があったんだ」

「そうなんだ。だけどその後、脳生理学が発達して、『計算ドリル』が明らかに脳に対して危険なものであることがわかり、突然とりやめとなったんだ。今や『計算ドリル』っていうことばさえ、人々の記憶からは消えつつあるようだね」

「でも、その『けえさんどりる』っていうの、一回やってみたいな」

「馬鹿いっちゃいかんよ。頭壊しちゃうぞ。専門家の研究によって、人によってはかなり有害だっていうことが証明されたのだから。先生なんか、宿題をするたんびに、あ~あ、『計算ドリル』のない国に行きたいなって、思っていたぐらいなんだから。そりゃもう、つらかったぞ。だって、わかりきった計算をただ単にもくもくと機械のように解いていくだけだから、そこには達成感も無ければ、面白みも喜びもない。あるとすれば、タイムを競争して、友だちに勝ったときの満足感ぐらいのことだったね。そういえば、社会全体が学力低下って大騒ぎしていたのも、ちょうどその頃だ。よかったね、君たちは。今のように、しく学ぶ時代に生まれてこれて。君たちには、信じられないかもしれないが、昔の子どもにとっては、勉強はきらいだっていう子がたくさんいたんだ。先生も、今の時代に生まれてくれば、もう少し賢い頭になっていたかもな。ははは」

こんな時代が一刻も早く来ることを祈っています!

学習は、!

だもんね!(o^-‘)b

この記事は旧ブログに書いた記事(2005年)を編集したものです。

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